アース・クエイク



阪神淡路大震災。







忘れもしないあの記憶。







今回はドラマに触発された形ではありますが、

管理人が経験した阪神淡路大震災をテキストにしたいと思います。



〜地震発生!!〜



1月17日、いつも通りの一日が始まるはずでした。

当時管理人は幼稚園児で年長。家族は5人家族で、

一階建ての一戸建てとかいう少し珍しい家に住んでたんです。

地震が起こる数時間前に実は俺、起きたんですよ。

おしっこ行きたくなってね。

今思うとあの時起きたのはなんらかの暗示だったのか。と思う。

しかしその時はそんなハズもなくまた寝ました。



それからですよね、ビックリしたのは・・・。



俺はまだ7歳でおおきな地震など経験したこともなく、

(といっても当時アレだけの地震を経験している人はまずいなかったでしょう。)

俺はなにが起きたかまず分かりませんでした。

親父が偶然起きていてテレビを見ていたそうで、「地震や!!」

とか言って驚いていたような・・・。



その後、無事管理人は救助?され家族5人全員無事でした。

兄貴は口の中に天井から降ってきた土埃が入ったとずっと言っていた記憶があります。

もちろん家の中はメチャクチャ。自然の力は恐ろしいです。



一番被害が大きかったのは台所。

みなさんも台所は注意してくださいね。

お皿全部割れますよ。ガラスのコップも全滅です。電子レンジとかオーブントースターもね。

寝る前まで見ていた台所とはまるで違う台所でした。

割れているお皿の中にはいつもサラダを入れていたお皿や、刺身を入れていたお皿なんかも割れているわけです。

その時は「かわいそうやなぁ」と子供ながらに思ってました。

とても踏み込めるような状況ではないのですが、玄関に行くには通るしかないのです。

今考えてみると変な構造の家でしたよ。

親父が「足切れた」とか言いつつ頑張って玄関まで行ってはみたものの、



「あかんわ、無理や。」



なんかドアが開かないみたいです。

その時は原因は分からなかったのでとりあえず兄貴の部屋の窓から出てみることに。

無事何事もなかったかのようにちゃんと開いてくれたので脱出することが出来ました。

外に出ると冬だというのに意外と明るかったのを憶えています。

多分、地震が発生してから結構時間が過ぎてたんでしょうね。

そして改めて家を見てみると、なんか左に傾いていました。

隣の家にもたれかかる感じでしたよ。

そのせいで玄関が開かなかったことがそこで判明しました。

いやぁ隣の家があってホント良かった。

なかったらぺっちゃんこでしたね。危ない危ない。



それからは記憶が曖昧なのですが、ハッキリと憶えているのは30mくらい離れた所にある、

ほんと小さなお寺がぺしゃんこになっていたことと、

隣の隣の隣の家のおじいちゃんが下敷きになっていたという事と、

向かいの家で飼われていて、俺といつも遊んでいた犬がどこかへ行ってしまった。



という事くらいですかね。



地面には無数の瓦が落ちていました。



おれ自身は兄貴とかと瓦割ったりして遊んでましたが、

その間にも親父は公衆電話へ走ったり仕事場へ行ったりとしていたみたいです。

その後、とりあえず避難所に指定されていた集会所に行く事になり、

そこでしばらく住む事になったんです。



〜集会所での暮らし〜



そのときにはすでにたくさんの人が集まっていて、

毛布などを床に敷いてみんな毛布にくるまっていました。

確かに冬だったので寒かったですし、もちろん暖房器具などないので、

そうするくらいしかなかったのですが・・・。



とりあえず俺の家族は端っこのほうで住まわせてもらうことに。

その後、続々と人がやってきました。住む事になった人や、

ここにいるとの情報を聞き駆けつけてきた人などさまざまでした。

結局、俺が住んだ所には他に20人ぐらいの人が住むことになったんです。

いろいろと自己紹介をしつつ、平和な日が始まったのです。

どっかのオバちゃんの息子さんが俺と下の名前が同じだったことに驚きつつ・・・。



初日の夜。

トイレに行きたくなったんですよ。しかも大の方。

ちなみに小の方は近くの公園で立ちションとかしてました。

大の方はどうするんだろうなぁとおもいつつ親父についていくと集会所のトイレに着き、

男子トイレの中に入って個室をひとつ空けてみると、ビックリ!!

和式トイレだったのですが、水道が復旧しているわけないので、

便器の中には無数のウ○コが!!

それもやるときに気分的に嫌なのでトイレットペーパーを他人がした後のものに、

かぶせてからやるもんですから、俺が見たときにはすでに、







ウ○コ紙ウ○コ紙ウ○コ紙ウ○コ紙ウ○コ紙ウ○コ紙ウ○コ紙ウ○コ紙







というサンドイッチ状態でした。



あの時吐かなかった俺がいまでもスゴイ。

普通に50センチくらいは盛ってましたよ。

だって俺立ちながらウ○コした記憶があるような・・・。



無事排泄も終了し、このまま初日が過ぎようとしていた頃、

新たな住人がやってきたのです。



その名も「トーマス」





は?





ですよね。俺も驚いたっちゅうーねん。



頭にパーマかけるときの帽子みたいなやつを被ったおばさんでした。

もしかしたら戸尾増という人だったのかも知れませんでしたが、

俺は「機関車トーマス」関係のひとなのかなぁとか思ってました。



〜次の日以降〜



次の日には国内各地からいろいろなものが届いていました。

仮設トイレや、毛布、本、食料などなど。

毛布に関してはいらねぇよって思うくらいありました。

俺は仮設トイレの登場が一番嬉しかったです。

ものすごい臭いはあるものの、あの光景を見ないでいいと思うと安心して排泄できます。

そして親戚一同全員無事だということもわかり一安心です。

ちなみに家には鍵などかけていませんでしたが全く大丈夫でした。

ってか玄関壊れてるし、窓は中からしかカギかけれないしね。

その後も数日に渡って、自宅から必要なものを持ってくる作業が続いたんです。



ある日、兄貴と一緒にキャスター付きの勉強イスを持って帰ってくるときでした。

自宅から集会所までには踏切がひとつあるんですが、

レールの隙間にキャスターが見事フィットしてしまい、幼稚園の俺には取る事ができなくなったのです。

その後、鳴り出す踏み切り。

パニックになった俺はそのままイスを残して踏み切りの外へ。

その時、俺の兄貴が踏み切りの中に入りイスを見事取ってくれたんです。

電車はスピードは落としてはいたものの事故にはなりませんでした。



よかったよかった。



救援物資はとどまることなく来ました。特に毛布が。

ちなみに4月から小学生だった俺は筆箱とかノートとかランドセルも貰いました。

地震から三日たって電気が復旧し生活はずいぶん楽になりました。

テレビがついた瞬間みんなで拍手したのを憶えてます。

食事は集会所の裏にあった公園では炊き出しが行なわれ、何回も豚汁を飲んだ記憶があります。

なぜかは分かりませんが、炊き出しといえば豚汁だったのです。

あっカレーもあったかな。カレーも何回も食べてた。

発泡スチロールの容器に入れられたカレーは今でも忘れることはありませんよ。

寒かったのもあったでしょうがホントご飯が美味しく感じられたあの頃。

ガスコンロ大活躍ですよ。もう最強。

今だったらIHがあって、もっと便利ですね。



地震が起きてから何日たった頃か忘れてしまいましたが、

その公園にお風呂が出来たんです。

近所の大工さんが作ってくれたそうなんですが、木で出来た浴槽でした。

脱衣所などは今考えてみるとほんと適当でブルーシート大活躍でした。

海の家みたいな感じかな。

そのお風呂には天井がないので晴れた夜の日しか入れませんでしたが、

最初入ったときは幸せの一言です。

母親と2人で女風呂に入ったのですが、浴槽はパンパン。

順番待ちで行列が出来るほどでした。

その時、当時20歳くらいであろう女性に女の子に間違われ、

「カワイイね♪」

とかなんとか言われたのがなんかすげぇ恥ずかしかった。

あぁ俺もそんな時があったんだなぁと今感じました。



〜その後〜



その後も集会所での暮らしは続き、日がたつにつれ出て行く人がちらほら。



管理人の所は4月の始めに仮設住宅へ引っ越したのですが、

最後の方はなんかすごかった。

ダンボールを積み重ねて壁みたいにして、ミニハウスを形成していました。

今考えたら3ヶ月もあんな所で暮らしていたのだと思うとスゴイ。



そして4月。

入学式が始まり新生活が始まったのです。

しかし俺は住んでいた家と仮設住宅が離れた場所にあったので、

幼稚園のみんなとは違う小学校に行くことになったんです。

まぁ普通になにごともなく小学校での生活は順調に進みました。

問題は仮設住宅ですよ。皆さんご存知の現代版長屋みたいなやつですよ。

隣の人の会話が聞こえますからね。

うるさくしてたら隣から「ちょっと静かにしてもらえませんか!」

とか言われた記憶が・・・。



ちなみに角部屋でした。ってか端っこの部屋ね。

端っこはね、やめといたほうがいいよ。ほんと。

今の仮設住宅がどうなっているかは知りませんが、

当時は金属むき出しでした。隣の部屋があるほうの壁は普通の壁なんですよ。

でももう片方の壁は金属なので冬になれば壁一面結露が発生して大変でした。

しかも冬寒い、夏暑い。台風で揺れるし。

そしてユニットバス。(洋式トイレとお風呂が同じ所にあるやつ)

なれたらそう大変なことではないんですが・・・。



そうこうしているうちにイモリが発生したりナメクジがいたりと大変な日々が続きましたが、

小学3年になるときにそれも終わりました。



現在の家に引っ越したのです。



この家も震災復興の一部で建てられたマンションです。市営です。

俺ももう高校生になりあれから随分と色々なことがありました。

こうテキストを書きながら考えていると、まだ復興は終わっていないのかなと感じます。

今現在、住んでいる家も仮設住宅を取り壊すために新しく作られたマンションですし、

まだまだ復興への道のりはあるような気がします。

神戸市は復興は一応終了したとか言っていたような気がしますが、

全然そんな事はありません。

俺の住んでいる近くに商店街があったのですが、

震災の火事で取り壊されてからは、アーケードはなくなってしまいました。

その商店街の周りではいまだに空き地がちらほらとありますし、まだまだです。

阪神淡路大震災を経験し、その後も住み続けたのには理由があります。



みんな自分が住んでいる所がすきなんですよ。

少なくとも俺はそう思います。そうでなくちゃ復興のために頑張ろうなんて思いませんよ。

補修したりするんじゃなくてゼロからのスタートなのですから。

相当のエネルギーがなければ無理です。

しかし現実に可能だったのです。

現在の形になるまではものすごい時間がかかりましたが、出来たのです。

人々の力は本当に凄いものがありますね。

それぞれのひとが協力し合ってこそ成しえたことだと思いますよ俺は。



〜最後に〜



阪神淡路大震災で失ったものはとても多いですが、手に入れたものも数多くありました。

人々とのつながりや協力することの大切さ、相互扶助の考え。



そして「アース・クエイク」でも言われていましたが、備えが重要です。

緊急用の水や食料は用意しておいたほうがいいでしょう。







ちなみに管理人の家は備えゼロ!!







あんな大きな出来事でも人間忘れてしまうものなのです。

経験済みなのに用意がないなんて笑えるよね。



是非皆さんの家は備えを用意して置いてくださいね♪



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